昭和45年9月14日 朝の御理解 第94節
信者に不同の扱いをすな物を余計に持ってくるとそれを大切にするようなことではならん。信心の篤いのが真の信者じゃ
これは取り次ぎ、御取次ぎの御用につかして頂く者に対する御理解だと思うですね。信者に不同の扱いをすなとこう仰る??ね。そこでこれは言わば私の見解、私の見解を皆さんに聞いてもろうて皆さんの信心のまぁ参考にして頂きたいとこう思います。
私ここに物を余計に持ってくるとそれを大切にするようなとこういうことは、物を余計持ってくると、いうならどんどんお供え物やらもできるという??ですね。ですからやはり??お道の用語をもってするとここんところは、よく御用ができるということになると思うんです。よく御用ができるということ、だから物を持ってくるということだけじゃない、お供えができるということじゃない、いうなら体のお供え。
昨日の13日会なんかの午前中の奉仕なんかは、これはいうならば午前3時間なり4時間なりをいうなら神様にお供えしたも同じことですね。そして草一本でも取らせて頂いて神様の心に沿いたいと、それもやはりお供え物を余計に持ってくるという内容と同じなんですよね。御用ということになりますと、はぁー昨日はなかなかお金で御用ができる。体で御用ができる。ですからひとつここんところは物が余計に持ってくるということに拘らずにね、御用が出来るという意味で私が、私の見解はそのような風にで聞いて頂きたい。御用ということはね、御用ということで。
昨日はこのように(せいかい?)に13日会が、あーいうならば合楽の転換期とも思われるほどしのことを、まぁ私としてはそれこそ微にいに細にわたって感じしかも含めるように、もういうなら「ハイ!」と手を上げて「あそこがわからんじゃった」と質問せんでも済むくらいに後から私考えたんです・・くらいの説明ができたなぁと思います。ところが実際はね皆さん本気で皆さんがあれに取り組んでごらんになりますとね、また分からないところが必ず出てくるでしょう。また私もあぁまだここは説明不足であったというところが出てくると思うです。
ですから皆さんやっぱりね取り組まなければね、分からん所すらも分からんです。あれでわかったということじゃぁ、分かったことがほんとに??に表されてこなければなりませんからねぇ。最後の後半のとこのほとんどが私の話だけで終わってしまいましたが、願いの根本理念についてといったようなね難しいこ言葉を使っておったですけれど、本当のいわば願いの本質とでも申しましょうかね、これはお道の信心でいうお願いなのです。
これは何様でもお願いをするということはどこでもありましょうと思うですね。神様を拝んだり仏様を拝んだりするかわりにはやっぱりお願いをするということが、お道の信心での願いと言うのは、どこまでも願いを持ってすると、喜びを持ってすること喜びを持って根とするこという意味においての願いだと。ね、そこで私共が20年間ね、???から教えを頂いとった人達は20年何年間「和賀心・和賀心」と和賀心を求めての信心をさせて頂いたということ。
それどういうような在り方にならせて頂いた時にその和賀心が頂けるか、ほんとに思いもかけない心のなかに、こういう喜びに浸っておられれる自分が、我と和賀心を拝めるほどしの気持ちをまぁ皆さんがまぁそりゃ時々ではあっても体験させて頂いた。あぁ自分も変わったもんだなぁ・・と思うただけで有難うなってくる・・って和賀心なんです。そういういわば心におかげがあると仰せられるから、そういうまた心におかげをまた事実受けておった。まぁいうならおかげを受けてきたということになると一切は和賀心にならなくても、御取次ぎを頂いておかげを頂いてきたというのが本当でしょう。
けれどもこういう状態になればおかげが頂けれるというておったんですね、なら昨日あたりの御理解を頂いておりますと、そういう和賀心、ありがたいなぁと勿体無いなぁ・・その心でね願えというのですよ。願いに徹するということは。そういう心でです、どうでもこうでもという願いを立てよと言う事。しかもそれからの願いは、それからの願いというのはどうでも世のお役に立たせて頂きたいの一念がね、その願いにならなければならないということでしたね。
皆さんここんところをようわかっとかんと、先の方で間違ごうてきますよ。ね。ほんとにお役に立ちたいとその一念が願いになってくる。しかもその土台は和賀心だとこういう。ですから話するだけですけど実際20年間もんの稽古をさせて頂いて、その和賀心を自分の心に感ずるということは実に難しいことだとわかってきたわけです。ね。和賀心が神に向こうのを信心というのじゃと。此の方ばかりが生神ではない、みんながこの世のおかげを受けられる。生神とはここに神が生まれるということであってと。その心に神が生まれるごとしの あぁこれが今、私の心の中に神が生まれてござるとじゃろうかと思われる如しの有り難さをやっぱ感じてきましたけど、それはもうある意味ではつかの間であったりね長くは続かないと。もう何かの問題に直面するともう心が淋しくなったり、イライラしておるというのが実情だったというわけ。
そこで昨日その申しましたように、賀びを以って根とするというそういう心を持ってなら願えと仰る。しかも願うことはお役に立ちたいの一念、一心が願いにならなきゃならない。ね、たくさんのお金も欲しい、いうなら健康も欲しい様々な願いの全てがです、ただ願いの様相というのは千差万別です。ひとりひとりがね。その願いの様々な様相をていしてくるですが、その願いの中心、芯をなすものはです、お金を頂きたい、お金をたくさん持っとらなければお役に立てないんだと、とうとう思うても、世のお役に立たせてくださいと如何に願ったところで、ないものでどうしてお役に立つか!・・ということです。
だからそう言う風に頂いてまいりますと、これはもう昨日若先生が言ってましたように始めの間なんでも願え何でも願え、えっとこうそれこそ飛びつくように‘いやぁこれから合楽の信心は素晴らしいことになるぞ!”ということだけで願いに飛びついてくるような思いでやったところが2日経ち3日経ち5日経ってくるうちに願いの内容がだんだんだんだん極めていくお話しを聞かせてもらいよったら今の所までに、の一線上に出てきたわけです。
喜びを以って根とするという願い、しかもその願いもただおかげ下さい下さいじゃなくて、世のお役に立ちたいとの一念が願いにならにゃならんというほどしに難しゅうなってきた。ね。そいでこりゃ願いの信心もこりゃ案外難しいというのが昨日までの皆の考えであったということなんです。ところがこの昨日色々とあらゆる角度からだんだんお話しを進めてまいりましてです、その願いということがね願いに徹する、自分の心には願いはなくてもね、神様の喜びを以ってする信心。神様のこの喜びは、願いの賀じゃないですよ普通の喜びですよ、喜という字ね神様の喜び。すっと私共の願いに徹するという喜びはね、祝いめでたいというあの賀正の賀の賀びですよ。違います、ね私共の賀びと神様の喜びと。ね。神様は喜んでくださるだろうと神様の痒い所に手の届くような願いの信心ゆうわけなんです。を以ってする信心、以ってする願いなんです。ということに段々なってまいりましたらこれは見やすいなぁということになってきたんですよ。
願いの信心ということも見やすい、ただ問題は自分の心の中にいよいよ神様がわかり、いよいよ親がわかり、いわば自分の心の中に交信というかね神様に喜んで頂きたい一念というものを燃やしてくる。それが昨日は高芝さんの例を以ってしますとね、御造営が始まろうとする時に高芝一家その時にはお供えしようと思うてもお供えもでけんほどしであったけれども、これは私が私共高芝一家が一生かかってからでもお供えさをせて頂きますから、どうぞご建築を始めてくださいということだったんですもんね。
まぁいうならほんとに??らしいことをいうということなんです。私はそん時にそん時の月例祭でそのこと話しました。そして私こういう例を以ってしました。私が大変ばばに可愛がられております。ですからねばばが私のいうことをですね喜んでそれを人に話すんですよ。ね、また実際そう言うておったんですね。「もう婆しゃんが死んだらどうするかね」「そりゃお棺の中に私も入っていく」ちゅうわけ。そりゃぁあんたうちのこの人ばっかりは私が死ぬと、私がお棺の中に入らんなんちゅうたらどうするかちゅーたら、もう婆しゃんと一緒においもいくっちこの人が言いますていうて喜んでですね、そう人に話しよった。そんなことできる筈がない。高芝さんというものそれができる筈がないと私思うたです。けれどもその時の実感はほんとなんだったんですよやっぱり。今は何にもできません。けれども今までのようなことじゃ何もすまい。だからできるようになったら、私共が一生かかってでも借金払いをさせて頂くから御造営のことを思い立ってくれというような、これはもう総代としての願いだった。
丁度ばばが亡くなる時に??もお棺の中に入っていくと、いうなら言うほどしに婆が喜んだように私も嬉しかったです、それを聞いた時に。もうできはせんぐらい分かってるんです私も。ね、いうならそういう、けな気なというか非常な心なんだ。だからそういう非常な心を起こすということなんですよ。神様がほんとに目を細めて喜んでくださるだろうようなことがです、それが空言じゃいかんですよこれが。それでは実がないことになりますから、その実感を嬉しと神様はおいてくださるに違いはないということ、その氏子のその心根を。だからまぁ極端な例ですけれども、神様の喜びを以ってする信心または願いというのはそのようなものだと。
そういうことになってまいりますとです、例えばここんところがですねぇ‘物を余計に持ってくるとそれを大切にするようなことではならん”としてみると金光様の信心な信心の篤いのが真の信者じゃと仰るが、ただ信心を一生懸命参ったり拝んだりするだけが真の信者か?信心が手篤いのかというと決してそうではない。なるほど一生懸命参ることも拝む事も大事だろうけれどもです、いうならもう物も余計に持って行かなければおられない。例えば甘木の??さんあたりの話しを頂くとね、まだ豆腐が大変戦時中で難しい時代に豆をやってその豆腐を作らせよった。豆腐いっちょ作っても「さぁはよう親先生に持っていけ」というたとこういう。それを話される時に涙ぽろぽろ流して言われた。私ただ何十年前にその話し聞いたことがあるんですけどね、結局例えここで親先生が出てきますけれども、その親先生がねよる金光大神に通じてござり、神様に天地の親神様に通うてござると思うならば、親先生をゆうなら大事にすることも神様を大事にすることも同じことなんだ。
榎島多佳子